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#35429
(´・ω・`)
参加者

図書館から十牛図に関する本を5冊ほど借りてきて読んだのですが、そのうちの3冊に、鉛筆であちこち線や書き込みがしてあり、さらには食べ物か飲み物と思われる染みまでついていて、読んでいて不愉快になりました(消しゴムで線を消しながら読みました)。線の引き方の特徴から、たぶん、この3冊は同じ人が以前に借りたものだと思われます。
いうまでもなく、図書館の本は公共のものなのですから、大切にしなければなりません。線を引いたり、書き込みをしたり、染みをつけたりするのは、マナー違反というか、「軽犯罪」とさえ呼びたいくらいです。

とりわけ私が首をかしげたくなったのは、十牛図という禅の教えに関する本に、そのようなことをしたことです。禅は宗教であり、人格を立派にさせる教えです。禅を学ぼうとする人は、立派な人格、立派な生き方をめざそうとする動機があるはずだと思うのですが、それなのに、公共財産である本に対して、いったいどんな神経でそのようなことができるのかと、理解できませんでした。
実は、以前も、別の図書館で「倫理」に関する本を借りたときも、その本に無数の線が引かれているのに閉口したことがあります。倫理に反することをしていながら、どんな考えで倫理の本など読んでいるのだろうかと。

線をたくさん引くからには、熱心に学ぶ姿勢はあったのだと思います。もしかしたら、学生が宿題を出されて、いやいや禅や倫理の本を読むことになったのかもしれません。それだったら、まだ理解できなくもありません。
しかし、自主的に禅や倫理を学ぼうとする人が、禅や倫理に反するような、本を汚すようなことを、どうしてできるのか、不思議でならないのです。本当に禅や倫理を学び、それを理解しようという気持ちがあるならば、そんなことはできないはずだと思うのです。

おそらく、頭や理屈では、しっかりと禅や倫理を理解しているのでしょう。しかし、行動がそれに伴っていないのです。
行動が伴っていなければ、本当に理解したと言えるでしょうか?
ソクラテスは、「徳を本当に知ったならば、徳のある人間になる」と言いました。いわゆる「知徳合一」です。いくら泳ぎ方を頭で知って理解したとしても、実際に泳げなければ、泳ぎ方を知らないのと同じです。

私たちは、何かすばらしいことを、単に頭で知っただけなのに、自分自身がすばらしい人間になったかのように、つい錯覚してしまう癖があるように思われます。
たとえば、禅の悟りの境地について、さまざまな理屈が語られています。そういうことを語らせたら、学者が一番でしょう。ならば、学者はみんな悟りの境地を開いているかというと、そうではないでしょう。愛についていくら学問的に説明できたとしても、その人に愛があるかどうかは、まったく別でしょう。
もちろん、知識が無駄だと言うつもりはありません。知識は道の方向を示してくれます。しかし、実際にその道を歩かなければならないのです。
いずれにしろ、知識を身につけただけで、それが本当に身に付いたのだと錯覚してしまう場合が、私たちにはあまりにも多いように思います。反対に、たとえ知識がなくても、立派な人はたくさんいます。そういう人は、徳というものを本当に理解しているのです。泳ぎ方はうまく説明できなくても、実際に泳げるならば、泳ぎ方を知っているのと同じです。

本は大変に立派だけれど、その著者に会ってみると、本ほど立派ではない、それどころか、軽蔑したくなる、といったことが、私自身の経験も含めて、少なくありません。私も本を書いてきましたから、このことは、強く自戒しなければならないと思っています。立派な本なんて、ちょっと知識と文才があれば、誰だって書くことができます。そうして読者は、「こんな立派な本を書くのだから、著者も立派な人に違いない」と思い込んでしまい、その著者を「先生」と呼んだりして崇めたりするのです。
しかし、人間として問われるのは、知識でも言葉でもありません。あくまでも、その人の生き方です。これがすべてを物語っています。

以上の文章を、皆さんに向かって、という以上に、自分自身に向かって、書かせていただきました。

http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/Diary.html